無題

2001年9月19日
先週以来、TV・新聞その他に多大なる時間を費やす毎日。...言うまでもなく、合衆国で起こった惨劇のため。

思う所は色々あれど、いざキーボードをたたきだすと、どうにもまとまらない。文章力のなさに涙。

しかし、いつまでも囚われていては本来書くべき日常のことが書けないので、もうここらで区切りをつけることにする。以下とりとめのない話。


...事件直後の興奮状態が徐々におさまってきて、アフガニスタンの民衆の様子など、多面的な情報がもたらされるようになって少しほっとした。

事件直後など、いつもなら各地のリポートなどでほのぼのと進行する朝のTVから、「全人類の敵であるテロリスト、テロ国家を殲滅するために〜!!」 などといったアジ演説まがいのセリフが流れてきて、なんとも言えない暗鬱な気分にさせらせた(-_-メ)

日本政府は新法を制定し、米軍の後方支援として自衛隊を派遣する方針らしい。

同盟国として当然というが、だからといってなんでもありというのではないだろう。「実績」を次々積み上げていって、最終的には一体どうしたいのか。
大戦後、国家として他国や他民族を直接的に攻撃したことがないのは、この国の外交上の貴重な財産だと思っていたのだけど、ろくに活かすこともないまま、それを放棄する時がくるのだろうか。

湾岸戦争時、多額の資金援助等をしながら、評価されなかったとかで、「湾岸の轍を踏まないためにも〜」などとやたら主張されるが、それによって日本はこの10年、どのような不利益をこうむったのだろう。
まさか「カッコ悪かった」というだけではあるまい。


TVは絶え間なく様々な情報を流し、政治の中枢にいる人達も、まるで身近な人のように画面を通じて見ることができる。彼らの語る天下国家論に賛同したり、ケチをつけたり。あるいはまるでアイドルのようにその雰囲気や物腰だけに夢中になったり。

でも現実は、画面を通して見られる側と見る側では、圧倒的な隔たりがある。権力を持つ人間と、それを行使される側の人間。
為政者にとって民衆は一人一人の人間というより、数で表される駒のようなもの。大のためには小を犠牲にする。...何が「大」であるかは、彼らの判断次第だ。

当然だが権力を行使するのは人間であって、神の視点をもつ万能者ではない。
その判断は最善の選択なのか、犠牲にみあう価値のあるものなのか。自分自身がその犠牲の対象となった時、それを納得できるのか。
注意深く見守っていかなければと思う。



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